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2、私の家族と恋人の正体

Author: 伊桜らな
last update Last Updated: 2026-01-20 15:05:25

休日の土曜日、私は実家に帰る支度をしていた。

鏡の前で髪を整えながら、胸の奥に重い石が沈むような感覚がする。

実家には父が一人で住んでいる。母は私が中学生の頃、交通事故で亡くなった。あの日、母の笑顔が永遠に消えた瞬間を、今でも夢に見る。

病院の無機質な匂いに父の泣き叫ぶ声、母の冷え切った指先――あの記憶は、私の心に深い傷を刻み込んでいる。

 それ以来、父と二人で暮らしていたが、大学入学を機に家を出てからは別々に生活している。それでも、二週間に一度は帰省する。

 父の様子を確認するため、そして――あの役割を果たすため。自分でも吐き気がするほど嫌悪するのに、足は自然と実家に向かう。

父を放っておけないという愛情?いや、それだけじゃない。父の悲しみを埋めるための歪んだ贖罪意識が、私を鎖のように縛っている。母に似ている私が、代わりになれるとでも思っているのだろうか。馬鹿げている。なのに、逃げられない。

実家まではアパートから電車で十分、それから徒歩十五分。約三十分の道のりだ。電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見つめる。

緊張した目で自分に見つめた。桜志くんに会う時の笑顔とは別人だ。彼の前では、聖菜でいられる。純粋に普通の恋する女の子でいられる。でも、実家に近づくにつれ、菜奈の仮面が顔を覗かせる。心臓が早鐘のように鳴る。

父の顔を思い浮かべると、愛情と恐怖、憎しみと同情が混じり合う。

母の死後、父は壊れてしまった。最初はただの悲しみだった。酒に逃げ、泣き叫び、私を抱きしめて「菜奈、菜奈」と繰り返した。

でも、ある日を境に、それは変わった。私を本物の菜奈として扱うようになった。あの瞬間から、私は二つの顔を持つ怪物になった。

聖菜と菜奈。

どちらも本物なのに、どちらも偽物。自分自身が信じられなくなる。

  ***

駅に到着し、駅直結のスーパーへ向かう。カートを押し、店内を回る。

二週間分の作り置きと今晩のご飯用。今日は父が好きなオムライスを。卵を手に取り、ケチャップをカゴへ。献立を頭で組み立てる。

【和食:ごぼうとひじきの炒め煮、青菜の出汁浸し、鮭と長ネギの南蛮漬け、肉じゃが、筑前煮。】

【中華:鶏肉ともやしの棒棒鶏サラダ、セロリと大根の中華漬け、手作り餃子】

【洋食:ラタトゥイユ、ロールキャベツ、ハンバーグ。】

この作業は、唯一の救いだ。包丁を握り、野菜を切る音、鍋の湯気、香辛料の匂い――それに没頭している間だけ、聖菜でいられる。父の喜ぶ顔を想像すると、わずかな達成感が湧く。でも、同時にお母さんへの罪悪感。料理は愛情の表れなのに、私のそれは贖罪の儀式だ。母の代わりを務めるための、惨めな供物。

「うーん……キャベツが高い。ロールキャベツは白菜で。白菜も高いけど、まあいいか」

カゴに材料を放り込み、レジで会計。エコバッグが重い。買いすぎた。十五分歩き、赤い屋根の家に着く。

 母の夢の家。玄関前で深呼吸をする。インターホンを押せば「聖菜、おかえり」と言いながらドアが開いて笑顔の父がいた。

 私の仮面を被る時間だ。

「ただいま、お父さん。ご飯作りに来たよ」

「いつもありがとう」

「うん、全然いいよ。今日はお酒飲んでないんだね」

「飲んでない。今から買いに行こうかと思ってた」

外出用するときの格好。心の中で安堵した。

 少しでも時間を稼げる。

「そう。私はご飯作るから、気をつけて」

「あぁ、ありがとう」

父が出ていくのを玄関で見送り、ため息を吐いた。

「暗くなるまでには帰ろう。ちゃちゃっと作らないと……」

 キッチンで荷物を置き、作業開始する。肉を玉ねぎ麹で漬け冷蔵庫へ入れた。

 野菜を洗い、切りって下準備をはじめる。煮物から作り、容器に詰めていく。

 作り置きのを冷ましていると十六時過ぎになっていた。夕食のオムライスを作りはじめる。これが終われば帰れる。

 早く作ろうと、ケチャップライスを炒めて卵を割ろうとした瞬間――玄関の開く音がした。

「もう……帰ってきた?」

いつもなら夜遅くまで帰ってこないはずなのだ。今日に限って、こんな早く帰ってくるだなんて。

 心臓がドクンッと跳ね、嫌な汗が流れ出す。

 玄関が閉じる音、靴を脱ぐ音、ビニール袋を置くカサカサっとした音に瓶の音。こちらに向かう足音が近づいてくるのかがわかる。

 帰りたかった。あのまま、聖奈のまま帰りたかった。

「……っ菜奈ちゃん、帰ってたんだねっ!」

父の幸せそうな顔。母の顔を浮かべて、私は菜奈になる。心の奥で聖菜が叫ぶのに、声は従順だ。

「お帰りなさい……渉《わたる》さん」

名前で呼ぶ瞬間、吐き気がする。

「渉さん。ご飯出来てるよ」

「良い匂いだ。美味しそー! さすが菜奈ちゃんだな。手を洗ってくるよ」

父が去ると、崩れ落ちる。ポケットのスマホが震えた。桜志くんの名前が表示された。思わず、指を伸ばすが、止めて電源を切った。

 菜奈の今、返信する資格はない。

 彼は純粋で、優しく、私を愛してくれている。なのに、私は現在進行形で汚れている。嘘で塗り固めた存在で愛しているからこそ、触れられない。

 胸が張り裂けそうになって涙がにじむのを堪える。

 食事が終わると、お風呂を沸かす。食器を洗っている間に父がお風呂に入った。洗い終わると交代し、私も浴室に向かう。浴槽に浸からずシャワーだけ体を急いで洗い、ルームウェアに着替えてリビングに行った。

 父はソファにいて、数分のはずなのにお酒の缶が散乱していた。これからを想像し、息を吐く。

 覚悟を決める。いや、諦めだ。リビングに入ると、父の視線が刺さる。獲物を狙う獣の目だ。

「菜奈、おかえり。さぁ、こちらに来て」

「うん」

歩み寄り、手首を掴まれ引き寄せられる。

「……っひゃ」

「菜奈、やっと触れられるな」

倒れ込み、跨られる。頰に触れ、熱い吐息が頬を撫でる。興奮した息遣いが耳元で聞こえた。

「わ、渉さんっ……ここじゃ、嫌です」

ソファでは嫌だ。リビングが汚れる。母の思い出の場所が。

願いくらい聞いてほしい。

「確かにそうだ。ベッドに行こう」

抱き上げられ、寝室へ。ベッドに押し倒され、頰、首筋、耳を撫でられ、舐められる。

「……ん」

感じたくない。心は拒絶するのに、体が反応する。数年染みついた快楽が、裏切る。気持ち悪い。父の息、汗の匂い、視線――全てが吐き気を催すのに、下腹部が熱くなる。

 嫌悪と快感の狭間で、自我が崩れそう。涙がこぼれるのを堪える。

「っわ、たるさん……だ、だめ」

「菜奈、手を退けて綺麗な体見せてよ」

抗うが、無力だ。手首を捕まれ、服を剥ぎ取られる。

 裸にされ、視線が体を焼く。恥ずかしさ、怒り、諦め、自己嫌悪が頭の中いっぱいになる。

「さぁ、可愛い俺の菜奈。愛し合おうじゃないか」

体中を舐め回され、下腹部を撫でられる。何度かイかされ獣の表情の父が、秘部に挿入した。激しく腰使い、痛みと快感と嫌悪が混じる。果てた後、体が震える。終わった。

 心が空っぽだ。

 母に似ているから。瓜二つだから。母の死後、父は壊れ、自暴自棄になったのだ。笑わなくなった。

 だけど、高校三年生の時に父は言ったのだ。

『帰ってきてくれたんだね、菜奈』と。

そして、私を抱いた。あれ以来、私は囚われの身。二重の人生が、私を蝕む。

***

父が起きる前、服を抱えて浴室に向かった。

シャワーを浴び、体を洗い流す。下腹部は入念に洗い、着てきた服を着る。リビングで避妊薬を飲み、メモに【もう帰るね】と書いた。父の寝室を覗き、「……お父さん、また来るね」と小さな声で言うと義務感か、愛情か、自分でもわからない。

家を出る。早朝五時。冷たい空気、静かな道。ひとりぼっちの世界が、孤独を慰めるようで、心地いい。今の私にふさわしい。駅まで歩き、始発の電車に乗った。早いからか貸切状態の席に座り、スマホの電源を入れる。

通知が殺到していた。

「あ……こんなに、いっぱい」

【不在着信:25件】【新着メッセージ:56件】

瑞希、理人くんからも。後で連絡を、と思うがタップできない。

 ただ、画面を見つめる。桜志くんの名前が、心を抉る。

これ以上、続けられない。嘘ばかりの私は純粋な彼に、相応しくない。愛しているから、別れなければならない。心が引き裂かれそうになる。痛みが全身を貫く。涙が止まらない。電車の窓に映る自分は、壊れた人形のようだった。

「もう、別れよう……っ」

 

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